2014-12-09

ある裸足族の挑戦

2014年12月1日分

先週のことですが、地元のショッピングセンターで2人の警備員に呼び止められました。私の裸足の足を見下ろして彼らは言いました。「悪いんだが、裸足のままここに入れるわけにはいかないんだ。」

そうなんです!この消費主義の神殿では、そのピカピカで清潔極まりない床に素足の肌で触れてはならないのです。

私は、おかしくって、裸足で歩くことがどんなにいいことか教えてあげようかと思いました。誰かがつま先をぶつけるか何かしてショッピングセンターを訴えようとしたとか、きっとそんな理由でこんなルールが出来たのでしょうから、その馬鹿馬鹿しさを教えてあげようかとも思いました。でも、そこで議論しても無駄だろうと気づいてしまいました(彼らのはいている、おそらくはスチール入りの安全靴を見ながら)。だから、満面の笑みを浮かべ、クスクス笑いを隠しきれないままを立ち去りました。別の入り口を探しに(もちろん警備員のいない)。その間ずっと考えていたんです。人間という生き物がどれほど自然から遠ざかってしまったのかを。そして、それ故に私たちがどれほど傷ついているかを。

私は裸足になるのが大好きです。世界とのつながりを感じられるからです。足の指をくねらせたり、曲げたりでき、足下の大地を軽くつかんだ時にはその感触や温度を感じることができる。この素晴らしい自由さを味わうのです。砂浜を裸足で走るのは格別です。やわらかな砂が、キュッと音を立てて踏み固められ、水際では冷たくシャキッとした海のしぶきがつま先に触れます。時には、感覚をもっと研ぎすますために目を閉じて走ることもあります。足下の感覚は、私を満たしてくれる朝日のぬくもりと重なっていきます。なんという至福の時でしょう!

移動生活を営むペナン族の人々と共にボルネオの森を歩いた時の、彼らの足の美しさを思い出します。彼らの足の指は、滑りやすい山の傾斜では、大地をつかむことができるように大きく広げられ、彼らの足の裏は、ジャングルのほとんどの植物のトゲが刺さらないほどに硬く、その一方で、冷たく柔らかな蛇の体を足下に感じた瞬間に「飛び退け」というメッセージを発することができるほど敏感でした。彼らは、太古の森を音もなく歩を進め、大地に下ろすその一歩一歩は、瞑想をもって敬意を示すかのように優しげでした。

私たちが「買うべき」靴には、特に健康のため、というものがありますが、そういう宣伝を見ると思わず笑ってしまうことがあります。なにしろそういう靴はとんでもなく高価で、そのくせ長期的には悪影響の方が大きいことが分かっているのですから。私の母が若かったころはもっとひどく、細く尖ったハイヒールという拷問具にデリケートなつま先を詰め込んでいたせいで、彼女のその後の人生には痛ましい後遺症が残されました。ですが、世の中は少しずつ変わっています。「裸足主義」のメリットを広めようという団体が世界中にあります(例えば、http://www.barefooters.org/ )。私の友人でもあるテリー双葉さんは京都で「はだしで歩こう会」( https://www.facebook.com/groups/203256943206739/?ref=ts&fref=ts という活動をしていますから、ナマケモノ倶楽部を愛する人の中にも裸足族はいます。

裸足で歩くって、とても簡単なことです。お勧めします。たまに文化的なタブーをおかすことや誰かが勝手につくったルールをやぶることになるかもしれませんが、靴から解放された時を過ごしてみてください。

【翻訳】宇野真介

高校の同窓会 もう30年!

2014年11月17日分

なんだか幽霊がざわめく部屋に踏み込んだようでした。そこには、1984年に高校を卒業した同級生たちが集まっていました。私たちのほとんどは(多分ですが)、お互いを覚えていませんでした。みんな胸元の名札の文字を目を細めて読もうとしていましたから。だいたい、私たちの歳になると、あの文字自体小さすぎて見えません。大声で語り、笑う人々の声と大音量で流れる昔の曲を聞きながら、オロオロ、ウロウロしているうちに、少しずつ学校生活のハイライトを思い出していきました。

私はこの同窓会に高校時代の(そして今でも)親友のスザンヌと一緒に出席しました。なんと名誉なことでしょう。長年にわたって、そのほとんどを遠く離れて暮らしてきたにもかかわらず、親交を保ち、互いの人生を見守ってこれました。そして、自分たちの心に正直であることができ、信じるものを追求し人々の助けになることができたということにも心から感謝しています。私たちは、少しお酒がまわってみんながリラックスするのを待ちたかったので、わざと少し遅刻して会場に到着しました。出来る限りの心の準備をしていったのですが(高校時代の古い写真見たり、Facebookで人探しをしたりして)、それでもなんだか現実離れした感じは否めませんでした。

それでも、全体として競争めいた雰囲気がなかったことは新鮮でした。10周年の同窓会だったとしたら(もしかすると20周年の同窓会でさえ)、職業や収入、「成功」、もしかしたら外見(!)さえもが、もっと大事なことのように思えていたかもしれません。ですが、ごった返す会場でつまんで回った手短な会話では、何をしているかとか、何を成し遂げたかといったことではなく、子どもがいるかとか(熱烈な子ども談義が続くこともあります)、どこに住んでいるかとか、そういったことが話題になりました。それから、最終学年を共にした、いつも壁際で傍観するだけだったシャイだけれども聡明な友人が同窓会の主役になったことは喜ばしいことでした。国際的なコメディアンとしてキャリアを積んだ彼女は、私たちの中では、社会一般で最も「成功」した人だったのではないかと思います。

私はどんな風に同級生たちの記憶に残っていたか、というと、(多分良い意味で)いつも何かの運動に携わっている人、自分の信念と道義を貫く人、そして学校のミュージカルの主役、そんな感じです。私を選挙に勝たせようと熱心に投票したことを話してくれる同級生もいましたが、彼らは、もっと出来ることがあったのでは、と後悔しているようにも見えました。そして、私自身も、またもや、モヤモヤした罪悪感を感じていました。効果的に「変化」を生み出すために十分努力してこなかったし、今でも出来ていない、という罪悪感。この目を見開いて、とどまることを知らない地球と人類の文化の破壊をこの30年間見てきただけだという罪悪感。

同窓会で集った私たちは、芯の部分では昔のままでした。親切で優しい人、賢いけどオタクっぽい人、表向きは自信たっぷりに振る舞う人、運動が得意な人、手際よくとりまとめをする人(そういう人無しにはあの同窓会自体ありえなかったでしょう!)。30周年の同窓会は、なんだか死期を間近にした時行う禅の修行のようにも思えました。どう生き何をなした人生だったのか、どんな人たちと出会い、どんな経験や選択をしてきたのかを考えるような、つまりは私という人間の総体を振り返る集いだったように思います。そして、全体としては、私は満足しています。次の30年がどんなことになるか、楽しみです!

【翻訳】宇野真介

2014-12-01

Challenges of a ‘Nelipot’ (one who walks with no shoes)



Last week I was stopped by two burley security men in our local shopping centre. They looked down at my naked feet and solemnly shook their heads…’Sorry love, you can’t come in here without shoes on’. 

Yes, it's against the rules to walk in these temples of consumerism unless you have something to separate your bare skin from the shiny, sterile floors.

I laughed and wondered whether to launch into a speech about the benefits of walking barefoot and the ridiculousness of this rule that was probably created after someone stubbed their toe and tried to sue the shopping centre…but I realized, (looking at their big boots which were possibly tipped with steel for extra protection) the argument would probably be futile. So I smiled widely, had a bit of a giggle and walked out to find another entrance (without security guards!), all the while pondering the vast distance human species had travelled away from nature and how much damage it was doing us.

I just love to bare my feet – it makes me feel connected. I savour the delicious freedom for my toes to wiggle and flex, to feel the textures and temperature of the floor beneath as my feet lightly grip the earth. There is nothing like running barefoot on the beach, with the squeak of the soft sand yielding to the compacted sand closer to the waters edge and then the cool, crisp splash of the ocean as it reaches your toes. Sometimes I close my eyes and run so I can feel that sensation more acutely, matched with the nurturing warmth of the morning sun…absolutely blissful!

I remember the beautiful feet of the nomadic Penan when walking with them in the Borneo forest – toes spread wide to be able to grip the Earth on the steep slippery mountain slopes. Their soles hard enough to resist most spiky barbs of jungle plants, but sensitive enough to send the signal to ‘jump quick’ if they encounter the cold soft flesh of a snake on their path. Padding silently through the ancient forest, they step lightly in a kind of reverence of walking meditation.

Some of the advertisements about the shoes you ‘should’ buy, especially for health and fitness make me laugh –  they are so very expensive and now proving to be doing more long-term damage than good. And it was even worse in my Mother’s younger days – her delicate toes squashed into tiny pointy high-heeled torture contraptions that have left a painful legacy for her every since. Things are slowly changing and there are groups around the world promoting the benefits of  'nelipotism' like: http://www.barefooters.org/ , and the great work of Sloth Club aficionados like my good friend Terry Futaba who runs the barefoot society in Kyoto: https://www.facebook.com/groups/203256943206739/?ref=ts&fref=ts

It’s the simplest thing, and I encourage you to give it a try - even though it means occasionally breaking some cultural taboos and arbitrary rules.  Spend some time liberated from your shoes!

2014-11-17

Highschool reunion - 30 years!


It was like walking into a room of noisy ghosts – the gathering of my classmates who graduated from highschool in 1984. Most of us (I think) had forgotten each other – squinting to read the name badges pinned to our chests with the letters far too small for our aging eyes. In the noise of shouting and laughing voices and loud retro music, we circled and milled about, slowly remembering some of the highlights of our school life.


My best friend at school (and my best friend still), Suzanne, and I went together. What an honor – to have witnessed each other’s lives over the years, remaining so close despite being separated by countries much of the time, full of gratitude for the freedom to follow our hearts, pursuing what we believe in and helping others. We purposely arrived a little late – waiting for people to have a few drinks to ‘loosen up’.  Even though we mentally prepared for the gathering as best we could  (looking over old school photos and searching personalities through facebook) it still all seemed a little surreal.

Overall it was refreshing to feel that there was seemed to be no real sense of competition - that may have been the case in a 10 or even 20 year reunion where career, income ‘success’ or even good looks! may have taken on more importance. The brief snatches of conversation possible in such a crowded cacophony, tended to be more about whether you had any children (and then raving on about them) and where you lived rather than what you were doing or had done.  It was wonderful to see the shy, intelligent wallflower of our final year become the life of the party – probably the most publicly ‘successful’ person in her career as a comedienne of international standing.  

I was remembered (fondly I think) as that girl who always had a campaign going on, who stood up for her beliefs and principles and who played the lead role in the high school musical. Former classmates told me that they had enthusiastically voted for me in election campaigns over the years and looked perhaps a little wistful that they hadn’t done more for worthy causes. And I felt, again, vaguely guilty that I had not done (am not doing) more to effectively ‘make a difference’ - witnessing, with eyes wide open, the relentless devastation of the last thirty years on the planet and on our human culture.

We're still the same people at our core – the kind and compassionate ones, the intelligent nerdish ones, the outwardly confident ones, the sporty ones, the practical, organizational ones (thanks to them the gathering happened at all!). My 30 highschool reunion seemed to me like a kind of zen practice for that time near our deaths when we reflect on how we have lived and what we have done with our lives, the people we have known, our experiences, our choices – the sum of us.  Overall, I am quite content – let’s see what the next thirty years brings!

Class of 1984 PBCSHS

2014-11-16

本当の自分でいること

時間は敵のように見えることもありますが、また素晴らしい先生の役割を果たすこともあります。時にはあの夜明けの美しい饗宴、海から太陽が現れる光景を見ているとしばし時間が止まり、そしてすべてのものの本来の姿がくっきりと浮かび上がって来ます。それから一日が整然と雑然を伴いながら現実世界の中で踊るように時を刻んで行きます。

私達一家は今ゴールドコーストに住んでいます。ここは私が生まれ育った土地であり、また自分のアイデンティティが損なわれないようにともがいていた場所でもあります。青春期にかけては「こうしなくてはいけない」という種類のさまざまな影響や重圧を受けてきました。ゴールドコーストはその美しいビーチとサーフィンで知られていますが、それだけでなくカジノやナイトクラブ、そして美容整形でも有名です。間違いなく影響は大きく、そしていつも健康的という訳には行かないのです。
今パチャは十代の多感な転換期に差し掛かっているので、私は彼女に対するいろいろな影響のバランスを取りながら、私たちは誰でありそしてどうしてここにいるのか、ということを思い起こさせるように意識しています。でもサーフィンはいつも彼女の中心に位置づいており、自然の中で自由に振る舞いそして力の源とも言うべき存在なのです。この動画を見てください!

2週間前に私たちは深い自然に抱かれた女性リトリートに呼ばれました。そこは海の力といろいろな能力を持つ聡明な女性達により営まれていました。大いなる暖かい抱擁という感覚が当てはまると思いますが、そこではあなたをそのまま、あなたが人生の旅路のどこにいようと育み受け入れるのです。あなたが自分自身のままでそこにいて人生のドラマと向き合い、他の場所から来た女性たちと結びつきを深めることを助ける新しい空間がありました。その美しい森の隠れ家のようなリトリートセンターをパートナーのピーター・カミングさんとともに創り上げたエシャーナさんには本当に感謝しています。私は将来彼らと一緒に深い自然に囲まれたワークショップを営み、そこにふさわしい人々を招きたいと思っています。みなさん、日本からもいかがですか?

私は、そこでパチャがそれまで身にまとっていた幾重もの他人からの期待を自ら剥ぎ取り自分のあるがままに返り、活発で喜びに満ちそして自由な肉体と精神を取り戻したのを目の当たりにしました。そうです。私たちは皆荒れ狂う海に飛び込み、サーフボードの上に立ち上がろうとして大波に向かって願うのです。私たちはか弱い人間なので優しくしてねと。そして転げ落ちぐるぐると回り洗い清められ・・そして再生するのです!

その間ヤニは、彼への大いなる啓発者であるRasta(ミュージシャン、活動家、そして地球上でもっともすぐれたフリーサーファーの一人)と一緒の時間を過ごしていました。そしてヤニも家に戻った時には彼の平和への感覚は再生されていました。しっかりとして冷静で、自分の人生を心に従い進み展開していく大いなる自信とでも言うべきものが備わっていました。
次の週末にコフスハーバーの近くで行われたサーフィン大会に行ったとき、熱帯雨林保護活動で一緒だった友人のアンディと20年ぶりに出会いました。アンディとティーンエイジャーの息子のフィンはとても美しいインテンショナル・コミュニティに住んでいます。そこは国立公園の中ほどに位置し海から歩いて数分のところにあります。そのコミュニティーではエネルギーや水、そして健康的な食材を自給しており、またお互いを敬い助け合う生活をしています。こういう事例からも私は、人間が未来に生き残り繁栄していくには様々な方法があるということを心から思うのです。

私たちはゴールドコーストを本拠としてはいますが、幸せなことに、ここには素晴らしい友達や家族に加え、文化や環境の観点からこの地の自然を守るために立ち上がる人々との長く力強い結びつきがあります。先週末GECKO(地域の環境グループ)の25周年記念集会に呼ばれましたが、それは偶然にもカフェスローで行われたナマケモノ倶楽部の15周年記念の会と同じ日でした。さて、私にとってのハイライトは、ママ(環境活動で賞を受けました。)や妹と良い付き合いをしてきたことと、そして何年もの間に行ってきた本当に数多くの活動とその素晴らしい仲間たちのことを思い出すことなのです。

【翻訳】中久保慎一

2014-10-22

Staying 'real'



Staying 'real'

Time can seem to be an enemy, but is such a great teacher too…Sometimes in those beautiful dawn celebrations, watching the sun rise out of the ocean, time stands still for a moment and there is clarity and everything seems as it should be. Then the day goes on in relevance and irrelevance – a dance in trying to keep it real.



We live on the Gold Coast now, the place I grew up, the place that I struggled to keep my identity intact as I grew through adolescence and there was so much influence and pressure to ‘be a certain way’.  The Gold Coast is famous not only for it’s beautiful beaches and surf, but for casinos, night-clubs and plastic surgery. There’s an influence, no doubt, and it’s not always a healthy one!
As Pacha travels through the big transition of teenage-hood, I’m aware of balancing the influences and reminding ourselves about who we are and why we are here! Surfing has been a constant anchor for her - to nature and to freedom and empowerment - take a look here!
 
A couple of weeks ago we were invited to take part in a deep ecology women’s retreat, co-facilitated by the ocean and an amazing team of wise and empowering women.  It felt like a warm embrace – nurturing and accepting of who you are, no matter where you are on your life’s journey.  There were new tools to help stay true to yourself and negotiate life’s ‘dramas’ and deep (re)connections to other women from different places. I’m so grateful to Eshana who has created the beautiful Foresthaven retreat centre with her partner Peter Cumming - I hope to work with them in the future inviting people along for deep ecology workshops – perhaps from Japan?

I watched as Pacha peeled off the layers of other people’s expectations of her to come back to her core – an exuberant, joyful, free spirit – strong in body and mind. We all jumped into a raging ocean, attempting to stand on our surfboards – asking the powerful waves to be kind to us since we are only feeble humans, being tumbled and turned and rinsed out… refreshed!

In the meantime, Yani got to stay with his great inspiration, Rasta - musician, activist and one of the best free surfers on the planet. Yani came home with renewed sense of peace – a steady calm and inexplicable faith that he could make his own good story, following his heart – in service to life…
The following weekend, we travelled to another surf competition near Coffs Harbor and were able to reconnect with a rainforest activist friend that I hadn’t seen for 20 years! Andy and his teenage son, Finn, live on a most beautiful intentional community – just minutes walk from the wild ocean in the middle of a national park. Self-sufficient in energy and water, lots of good healthy local food and a community that celebrates together and supports each other…it was another heartening reminder that there are many ways that humans can survive and thrive into the future.

So, even though we are based on the Gold Coast, we are so lucky to have wonderful friends, family and long, strong connections with the people here who stand up to protect the natural beauty of the place culturally and environmentally). Last weekend we were invited to attend the 25th anniversary celebration of the GECKO (our local environment group) – which happened to coincide with the 15th anniversary celebration of the Sloth Club at Café Slow! The highlight for me was going along with my Mum (who received an award for her environment work) and my sister – and remembering the many, many campaigns over the years and the wonderful people we’ve shared them with!


2014-10-11

ナマケモノ倶楽部15周年に寄せて

2014年9月11日分

私はあのナマケモノに最初に出会った日のことは忘れることができません。

それはまるで生きたロースト肉であるかのように手足を体にくくりつけるように縛られ、コンクリートの洗い場に転がされていました。出荷される日をじっと待っており、いずれそのやせた体が北西エクアドルの家庭の食用の一部となるのです。まだ殺されていないのはただ肉を新鮮に保つためだけなのでしょう。その苦しみは無言であり顧みられること無くそして不条理なものでした。この光景を前にして、最初私の内なる世界が崩れ落ちました。私は、必要悪として他者の苦しみから自らを切り離してしまう、人間の特徴的傾向を目の当たりにしていたのです。

とてもやるせなく悲嘆にくれましたが、この生き物を解放すべく、エクアドルの食文化に対して出来る限りの配慮をしながら交渉した結果何とかこのナマケモノを買い上げることができました。そしてこの美しい動物を膝の上に寝かせ、虫にたかられた緑色がかった毛をなでながら、永遠に変わることのない微笑をたたえた顔をじっと見つめていると、私はナマケモノというものは何と素晴らしい生き物なのだろうと感じ始めました。穏やかで疑う余地がないほど敵意が無く、とてもとてもゆっくりで。そしてナマケモノは少しずつ、でも着実に動きながら木に登っていったのです。あのナマケノは知る由もなかったでしょうが、この出会いがナマケモノでないことを理想とする日本という国で私たちの運動が始まるきっかけになったのです。

15年経ちナマケモノ倶楽部は続いています。寛容でかたよらず思いやりの心を持ち、年齢や経歴にこだわらない仲間たち。この運動が深みのある影響を持っていることに少し当惑しながらも、宗教的でない、環境や文化面での運動が様々な社会的変革-と言っても多くは魂のレベルなのですが-を生み出しています。私は遠くから見ていていつも新しいアイデアや活動に感銘を受けています。そして最も飾り気のないつつましやかな取り組み方法が最も大きな影響力を持っているように感じられます。それは愛そのものです。

そういう考え方や感性がほかの運動に浸透していくのを見るのは感動的です。ほかの運動家たちが、悪夢のような破壊行為の背景となっている世に蔓延した支配的なシステムのおかしな模倣に陥ることから守ってあげることができるのです。

そして、もちろん私たちは皆「ナマケモノになる」ことを目指し続けていますが、一方で私は最近、私たちの運動は映画ロード・オブ・ザ・リングにおけるホビット族の役割に似ているのでは?という認識を持っています。いのちを守るという使命を果たす事は出来ないと知りつつも、でも決してあきらめることなく、私たちのすべての活動の中にユーモアや人間らしさを見つけ出そうとしています。たとえそれがどんなに小さなことや一見重要に見えないことであっても。映画の中で、ビルボとフロドという裸足のホビット族が力も運も足りないとしか思えない絶望的な使命に立ち向かう姿を見て魔法使いのガンダルフは言います。「暗黒を押しとどめているのは、普通の人たちの毎日の小さな行いの積み重ねであるということが分かった」。

満面の笑みと自慢の裸足(だいたいそうです!)の自分です。そしてナマケモノ倶楽部のメンバーでいることは私の名誉と喜びなのです。